新しい公共性の出現

一体彼らが何を意図としてこのような展示を構成するように至ったのか、そのような疑問が浮かんだのはキュレーションの枠組みがこの数年来の「芸大油画3年次進級展」(以下、「3年次進級展」)の中で特に今回の展示において強いという風に感じられたからでもあるだろうか——本展で示されたキュレーションの枠組みとは“都市(=共同体)”である。以下、ステートメントを引用する。

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内海拓《COMFORT ZONE》

             

「新しい入出力」=「New Input/ Output」の略称でもある『NI/O』は、新たなモノ・コトが持ち込まれたり、持ち出されたりする事で都市としての代謝を繰り返します。個別の作品だけでなく、住民同士のぶつかり合いや連携の結果として立ちあがって来る都市の姿も、本展覧会の見どころです 

 

今回、目立ってここ数年の「3年次進級展」と違っていると思われた特徴は、会場内に小屋のようなものを作りその中で自作(の平面や立体)を発表している学生達が多かった、ということだ。そして、鑑賞者が3331ギャラリー内を歩くと、まるで都市を経めぐるような感覚に囚われる——そう、都市の中にあるバザールを覗きながらそぞろ歩くように——のは恐らく、この小屋の効果も一役買っているに違いない。さらに三度笠をかぶる旅人(ゲーム『がんばれゴエモン』に出てきそうな)風の格好をしたパフォーマーが会場を回遊しているなど、どことなくRPGゲームの世界観のようにも思われた。そこで、どこまで意図された結果なのかは分からないが、本展はRPGを意識して設計されたものであるのではないか、と仮説を立ててみたい。

 

さて、実は、筆者は本展を2度見ているのだが、1度目は初日に展示を拝見し、それも19時を既に回っていたような時間帯だったため、オープニングパーティーが行われている最中でもあった。そのため、会場内には学生はおろか鑑賞者の姿もほとんど見当たらなかったし、まだ作業途中のような作品も中には残されていたのだが、その誰もいない会場内で見る主人のいない小屋(のようなもの)は何の感興を催すことはなく、むしろつまらない・寂しい印象を与えるものであった。しかし、2度目に見たときの印象はそれとは真逆なのである。たとえば、キャラクターが全く出てこないRPGに面白みを感じることができるだろうか。人がいて、成立する世界。都市とはそういうものである。だが、さしずめ芸術は、人がいなくても成立する境地を目指すべきものなのではないのか。

 

これと似たような性質の話がある。つい先日だが、辰野登絵子の展覧会を埼玉県立近代美術館で見た。2時間に及ぶ関連トークイベントを間に挟み、その日は2度展示室に足を運んだのだが、最初人が多く作品がよく見られないような状況だった会場も、トーク終了後いち早く講堂を抜け再び人のいない状況で眺めたときとはかなり違った印象を与えるのであった。規則的なグリッドのシリーズ作品が、誰の目にも触れることなく、展示室の一角で、だが確実に自づからの存在の輝きを放ち、自足しているように見える“感覚”、そのとき筆者はすかさず“美しい”と感じた。まるで、美しい自然を目の当たりにしたときのように、である。

 

その経験を思い合わせると、この度の「3年次進級展」の性質は展覧会というよりもイベントに近い。いわゆる“ギャラリスト”という仕事の醍醐味というものが「閉廊後の誰もいないギャラリーでひっそり作品と向き合えることだ」というのは美術業界の言い草だが、逆にイベントであれば、誰もいない“お祭り”ほど虚しいものはないだろう。畢竟、この展示は展覧会というよりも文化祭に近い。感覚としては、本ギャラリースペースにて昨年行われていた「SNS展 #もしもSNSがなかったら」により近い。おまけに、「このアプリを評価してくだい」と言わんばかりにレビューを提出するための(顧客心理をくすぐるような)手練手管の尽くされたカードを入り口で手渡される。まさに、フィードバック系に慣れ親しんだデジタル世代ならではの行為ではないか。

 

とはいえ、最初にも書いた通り、これはキュレーションの枠組みへの批判である。個々の作品を見ていくと、面白いものも多かったし、新しい視覚表象に触れられたことへの喜びも素直に感じることができた。なぜ、小屋(のようなもの)をしつらえるのかと考えると、彼らは〈パブリック=ギャラリー=グループ展〉に〈プライベート=自室=個展〉をインストール——それも騒擾を起こすことなく——することで、スマートフォンによりいつでも“心地の良い空間”にアクセスできる身体感覚を、アナログなやり方で、等身大に表現しているのではないか、とも思われるのだ。一言で言うと、“公共性の概念の拡張”という変化がそこに見て取れるのではないか。それならば、逆ベクトルの行い、即ち〈プライベート=自室=個展〉に〈パブリック=ギャラリー=グループ展〉をインストールし、その新たな経路——「新しい入出力」=「New Input/ Output」——を補強することも可能なのではないか。いずれにせよ、今後どのように技法を洗練させ、新たな才能が頭角を表すか、その萌芽を予感させるような展示であったことには、間違いない。