コロナ禍を有意化し、解釈する

いまのわが国は喩えるなら、東京オリンピックと経済のことしか頭になく、社会がどうなろうと利権や保身を優先して止まないメクラな政治家達によって鼻面を引き回されている巨大な牛だ。峻烈な風が吹きつける中、巨躯を揺すってあちらにブレ、こちらにブレているうちに、捕まる体力のない国民=社会的弱者から奈落へ振り落とされていく。
 遡ること12年前、2008年のリーマンショックの時にも、やはり社会的弱者は振り落とされ、捨ておかれた。このことは、同じ年にうまれた「年越し派遣村」という言葉や、その前後によく聞かれた「勝ち組」/「負け組」といった2分法のことを思い返してみるだけで自ずと明らかになる。前者の言葉は、当時の麻生政権の無策のもと、路地に溢れ出した失業者を救済するために民間団体が年の暮れに行った避難所の提供や炊き出しを指す。後者は、<ノブレス・オブリージュ>とはまるで無縁の高所得者と、<バブル崩壊に発端する経済低迷>の中で非正規雇用に流れていった——俗に言う下流社会の——貧者との間にある固定的な階級差を象徴する。そこには為政者が弱者に手を差し延べる本来あるべき理想的な社会の姿形は微塵もなく、ただ疲弊しきった人々に向けて「負け組」と吐き捨てる強者達だけがいた。そして、こうした弱者切り捨ての価値観は、総じて“自己責任”というマジックワードと表裏一体の関係を持つ。

 

 政治は、“自己責任”というマジックワードの上に居直りを決め込んで、所得の格差を拡げ社会を劣化させるグローバル資本主義下のネオリベ経済を最優先させ続けてきている。これが露骨に現れてきたのが、第2次安倍内閣での2014年の増税時だろう。当初社会保障の財源に“全額”充てるとして値上げされた消費税は、蓋を開けてみればほとんどが国の債務充当に使われていた(*1)。一方で、アメリカの言い値で買わされる軍事品の購入に充てられる軍事費は、毎年最高値を更新しながら計上され続けている(*2)。さらに、格差の問題は、政府の責任ではないと捉える日本人が多いという統計結果があるらしい(*3)。以前、「“自己責任”という言葉の裏面は、“政府の無責任”だ」という市民の声をどこかで耳にした。私はこれをもっともだと思う。付け加えて言うならば、“自己責任”というワードは、逆に弱者によって現在頻発されているところにこそ、そのマジックワードたる所以がある。
 中西新太郎関東学院大学教授によると、明日にもわが身の生活の基盤が崩れかねない生活困窮者である若者達は、これ以上状況が悪化することを恐れ、現政権の支持へと靡くという(*4)。その結果、強者の理論を内面化し、精神的な隷属化の過程が完成させられる。あるいは、強者に媚びお覚えめでたくなろうと“俗物根性”を丸出しにしたネット右翼達も、同様に弱者と見做していい。傲慢で老獪な為政者達は、まさにそこに漬け込んでいき人心を支配しようとするものだ。自らの立場を盤石なものとするためには、まず権力を誇示したあと、弱者での連帯行動を阻害する“自己責任”論を称揚するだけでいい。そして現政権は、歴代最長の栄を賜るにまで至った。

 

 さて、このコロナ禍では、一体だれが弱者か。無論、金銭的余裕を持たぬ人々が依然弱者であり続けるということに反論の余地はない。だが果たして、金銭的余裕がある人々は、勝者になれるのだろうか。その保証がないことに、第1のポイントがある。このグローバル資本主義の中のルールを決定的に崩壊させた新しいルールのもとでは、金銭的余裕があろうとなかろうと、社会全体を覆うウイルスという敵を前にしたとき、すべての人は生身を持った弱者となる。つまり、『志村けん』のような有名人だろうと、『ボリス・ジョンソン』のように国を治める首長であろうと全く変わりはなく、感染すると死亡率1%の純粋に数学的な世界に叩き落とされる、上に——
 その上に、国境を越えて“グローバルに”自由に活動する、あるいは豪華クルーズ船に乗って世界を漫遊するような人々、即ちある程度暮らしに余裕を持ち、文化レベルも高い——先ほどの区分で言えば紛れもなく「勝ち組」に属するような——社交的な人々であればあるほど、感染リスクも高くなる。東京都の地区別の感染者数を見てみると、世田谷区・港区で明らかに高いことが、これを能弁に物語っている。ではわれわれは、手をこまねき事態の推移を見守ることしかできないのだろうか。そうではない。生活困窮者=弱者が強者に押し潰されないために採るべき方法は、権威主義を内面化して防衛するということだけではない。もう一つ、むしろ強者に伍していくための方法がある。それは連帯だ。

 

 あるいは、このオーバーシュートを目前にしたコロナ禍を調伏するためには、連帯“しか”方法がないはずだ。人と人が近づけば感染し、マスクを付けなければ感染率が高まる。買い占めの渦の中でパンデミックが起こるのならば、一人の感染の向こう側にいる社会の中のアノニマスな人々と連帯し、自分の兜の緒を締めることができるかどうか、あるいは、本当に物資を必要とする人々のことを想像して、ヒステリックな欲望に歯止めをかけることができるかに万事懸かっているはずだ。だが、わが国の為政者は、これまで人々の連帯意識を高めるための支援を何ら行ってこなかった。むしろ、原発問題・基地問題・TPP問題など、地域共同体の連帯意識が高まる契機は無数にこそあれ、冷酷無情にも冷や水をぶっかける方向でしか働いてこなかった。富国強兵にばかり情熱を費やし、市民の共同体意識を醸成するようなことは全くしてこなかったツケが、ここで回ってきた。
 のみならず、現政権は、まさに現在進行形で弱者切り捨てをしている只中である。職場では、既にコロナ解雇が始まっている。国内の失業者は、現在1600人(4/2現在)を数え、これからも急増する見通しだという。実際、アメリカではリーマンショックの時の失業率を超えたとの報道があった(*5)。彼らを捨ておき現政権は、次の衆院選・総裁選で有利に働くためのアリバイとして、対策案を牛歩で練っている。その間、捕まり続けることのできなかった人から奈落の底へ落ちていくとしてもだ。羽振りの良さやアリバイ工作の2重基準で面上だけ繕ってきた、現政権の盤根錯節における “無能力”——これが第2のポイントである。

 

そして第3のポイントは、災害列国・日本という悪い場所の特異性に関わる。多くの識者がこのコロナ渦でNY・イタリアのように国内も医療崩壊する危険性を指摘している中で、もしも災害が起こったら・・・。今後30年以内に70%の確率で起きると予測されている首都直下型地震が、万が一起こったら?または、2016年4月に起こった熊本地震が、もしも今年の4月に起こっていたとしたら?また、ここ数年、7-8月には毎年どこかの地域で豪雨に見舞われている。もしも、例に漏れず今年も集中豪雨が起こるとして、それまでに感染収束の見通しが立っておらず、多くの人が避難所へ殺到する事態にまで至ったら、人々は感染リスクに曝されながら明けない夜を過ごすことになる。あるいは感染者はいないかもしれない。しかし、どれほどの不安が被災者に襲いかかるか。考えただけでも戦慄する。だが、一方でコロナウイルスによる若者の致死率は中年・老年のそれに比べて低いという。2021年にオリンピックも延期になったこのタイミングで、もしも首都直下地震が起こったら、宜なるかな、それはもはや天命としか受け止めようがないだろう。
 そして——、多くの中高年が死ぬ。日本はいま、少子高齢化で世界の先を行く。とある識者が「日本が浮上する契機は世界に先駆け少子高齢化問題の解決策を提示すること」と言っていたらしいが、もしもこのタイミングで、首都直下型地震が起こったら——、利権なしでは何もできない頑迷固陋な政府も何もかも崩れ去って、日本は再び浮上するだろうか。人口動態が逆転する日に向けて、われわれは準備を開始しなければならない。

 

 


(*1)「<ロングインタビュー> 井手英策・慶応大教授」
https://www.tokyo-np.co.jp/senkyo/kokusei201607/ren/CK2016070802100023.html
(*2)「防衛予算案5.3兆円、過去最大 高い米製品の購入続く」朝日新聞朝刊2019年12月20日
(*3) 「<ロングインタビュー> 井手英策・慶応大教授」
https://www.tokyo-np.co.jp/senkyo/kokusei201607/ren/CK2016070802100023.html
(*4)「「強権」支持する若者って誰 恵まれた層とギリギリの層」朝日新聞朝刊2020年2月20日
(*5)「米の失業申請、週328万人 世界恐慌時に匹敵の恐れ」朝日新聞朝刊2020年3月26日