犬の夢

季節は春、気持ちのいい生暖かい春の微風が流れる真夜中、犬の散歩をしている。幹線沿いの歩道だ。左手には雑居ビルやアパートが並ぶ。目の前をもたつく脚で歩く犬の腰のブレ方を眺めやり、寄る歳波に「ビッコを曳いているのだろうか?」と漠然とした不安を感じている。すると突然、左手に猫を見つけ、パッと犬は首輪を抜け追いかけて行って消えてしまう。老犬といえども本能は現役のままで、自分は過去幾度となくそうさせられてきたように、うんざりとしながらピロティ式のアパートの駐車場から路地裏の傍道へ、犬の名前を大声で呼びながらその跡を辿っていく。ふと胸騒ぎがする。程なくして、「ギャンッ!」という悲鳴とともに、表の幹線道路で衝突音が上がった。慌てて駆けつけると、案の定、下半身を引きずった犬の姿が行き交う車の合間にみえる。助けようと道路の真ん中へ飛び込む。しかし、犬は後肢を曳きずりつつ混乱し当て所なく逃げる。それを追いかけようとするが、車の交通量が多いせいで、ギリギリのところで追いつけず、通り過ぎてゆく車に行く手を阻まれる。危うくもトラックや軽自動車と真正面から衝突しそうになりながら、何台目かの車が走り去った後、ついに犬を避けた車同士がぶつかった。私の目の前でぶつかった方の車のフロント部分がぺしゃんこになってゆくのがスロー再生で見え、運転席のドライバーの命も助からないかもしれないという考えがさっとよぎる。幽かに、『このまま犬が轢かれて死んでくれれば治療費も浮き、自分の今の危険な状況も抜けられるのに』と思う。『死ねばいいのに』——と。

眼が覚めると、辺りは明るくなっていて、自分はひらけた空き地の小高くなった見晴らしのいいところへ寝そべっており、片手には犬が抜け出した首輪とそれに繋がるリードを持っている。目の前に、青空を背景にして、尻尾を千切れんばかりに勢いよく(腰までつられて)振りながら、嬉しそうな様子の犬が近寄ってくるのが見える。目は歓喜に潤み、少しやつれ、一晩自分も探していたのだ、会えて嬉しいのだ、という犬の気持ちが、あたかもはっきりそう口で言われたかのように直感で分かる。自分は、知らず知らずにうっかりと、犬を追って路地裏に迷い込むうちに睡り込み悪夢の中へ迷い込んだのだと悟り、大いに犬の(そこを撫でられるのが好きなのを知っているので)耳の後ろの首の皮のたるんでいる付け根の部分を撫でてやった。そして、再び会えた喜びを分かち合った。

犬はオレを探していたのだ。

夢から目覚め起床すると、犬はもうこの世にはいない。そう3年前、死んだのだ。
死の間際、正月に実家に帰省した際、頭も呆けて下半身不随になった犬を見て、可哀想にと思った反面、心のどこかでオレは『早く死ねばいいのに』と感じてしまっていた。東京に戻ってからも、犬のことを考えるとその感情は、日に日に募る一方だった。そんな自分に嫌悪を催し、なるべく犬のことは考えまいと努め、そして実際、忙しい日々のなかで段々と忘れていった。その数ヶ月後、母から「〇〇(犬の名前)が逝きました」とメールが入った時にも、まず胸の重荷が降りたように安堵し、そのあとで空虚感とおしるし程度の悲しみを感じたが、涙は出なかった。自分が欲しいと言って親の反対も押し切って飼い始め、以降ずっと一緒にいたはずなのに、悲しみの涙で弔ってやることもできない自分の非人間的な心を責め、やがてそれも薄れていった。逆に悲しみを感じない自分が不思議に思え——事実、小さい頃は犬が死ぬことを考えただけで涙が出たものだ——、疑問だけが残った。だが、『犬はオレを探していたのだ』と、その可能性ゼロではないのだと、ようやく気が付いた。

そして夢の中にまで会いにきてくれた。一晩どころか3年もかけて。はち切れんばかりに尻尾を振って。できることならいつまでも目覚めず、そのまま耳の裏側を撫で続けてやっていたかった。

犬が死んで3年、オレは犬のためにはじめて嗚咽しながら泣いた。

 

「したがって、涙を流すとは、僕らの内奥の歓喜を語ることだ」
アラン『精神と情熱に関する八十一章』p.191