『知の技法』第Ⅰ部へのあてつけ

 

私の嫌いな概念語に「問い直す」というものがある。知的な現代美術界隈が使いたがる傾向にあるように思われる言葉の一つだが、「問い直し」した結果、めぼしい結果が出たのかどうかまで追って書かれていることはほとんどない。つまり、「問い直す」という言葉はほとんど「何もしない」というのと同義のように思われ、単に発言者の強固な立場・主体をとある問題に際して温存するために使われているようにしか思われてならない。そして、何もしないと結果がどんどん悪くなっていくような事態の渦中にある者にとって、この「問い直す」という言葉ほど、内容空疎なものはない。

 

私たちが常識として捉え、生活の土台として無意識/無批判的に受け容れている習俗がある。たとえば、「問い直す」といった言葉は、その習俗のよってきたるところにある性格(地域の祭りとそれに代表される人々の排他性など)が矢面に立たされる時に頻発してくるものだが、ただ、その発言が安全に行われうる——騒擾を巻き起こすことなく——のは、他でもない当の発言者自身が、その地域コミュニティー・共同体の一員に属していないからだ。若しくは、属していたとしても、そこから物質的に何らかの恩恵を享受し、物心ともに依存しつつ生を営んでいるわけではないからだ。そのような虚偽の立場から発見された習俗とそれに由来する共同体の構成員の性格に関する考察、及び批判は全く無意味だと言っていい。何故か。これは、今にも緊急事態宣言が発せられんとしている国に身を置いてみればわかる。「問い直す」などという言葉が、どれほど無力で無意味か。一刻を争うような状況で「問い直す」という言葉が、どれほど空々しく、内容空疎に聞こえるか。

 

小さな共同体に対して、「問い直す」といった言葉で征服することに成功した言論はしかし、我が身の明日の生活に関わるような事態——それが言語によって分析し果せたはずの国民の「事大主義」といった類の性格によってもたらされるものだったとしても——に直面したときに、ふたたび賢しらぶった冷笑的態度で「問い直す」などと書き記してみたところで、それで一体何になるのだろうか。「問い直す」ことで、明日の我が身の生活を「立て直す」ことができるとでもいうのだろうか。

或いは今回(2020年3月7日現在)、日本は新型コロナウイルスの感染拡大によって一億総ヒステリック状態、若しくは総アナフィラキシーショック状態とでも言えるような状況になっているが、シリア・イラン・イラクはどうか。明日、自分が生きている保証はどこにもなく、一刻も早く状況を変えなければ自分は一瞬間後に死ぬかもしれないような状態で、慣習・習俗を分析し、そこから導かれる国民の性格を批判的に考察して、他にも補助線を色々と引き「問い直し」してみたところで、事態は一向によくならないし、のみならず——。

のみならず、時間の経過=憎悪の連鎖とともに、状況は益々悪くなっていくだろう。そのようなとき、本当に必要とされているものは、少しでも明日自分が死ぬかもしれない可能性を低減させてくれるための“何か”であって、人はその“何か”を探し求めるために血路を開こうとする。
一刻でも早く自分や身の回りの者が救われるための“何か”。その探究の途上においては、「問い直す」などといった賢しらぶった言葉は、全くお呼びではないのである。