カオス*ラウンジの終焉――TOKYO 2021を観て――

前回、六本木ヒルズA/Dギャラリーでみた展示も惨憺たるものがあったが、今回はツイッターの宣伝ツイート(主に黒瀬陽平によるエゴサ)で評判の展示のようだと刷り込まれ鼻から期待値が膨らんでいたこともあって、尚更失望が大きくなったと言える。出ている作品が、まずどうしようもなく目も当てられない状況だった。正直に告白すると、あまりにも目も当てられず、顔から火が出るような思いで展示室を後にしたので、個々の作品をじっくりと分析してみたかというと、そんな暇もなかった。なので、個々の作品に対する言及ができない。が、そんな私をして書かしめるこの酷さとは一体なんだったのであろうか・・・。赤面し、一目散に逃げ出した一鑑賞者なりに原因を探りたい。


本展は、2019年9月14日〜10月20日まで東京・京橋の旧・戸田建設本社ビルで「慰霊のエンジニアリング」と題され行われた展示だ。出品作家は、『これが現代美術でござい・・・』と言わんばかりの錚々たる顔ぶれである。展示室Aには、一時代を代表する作家らの過去作が並んでいる。中谷芙二子八谷和彦、三上晴子、そして会田誠といった、そこだけ抽出すると奇妙な取り合わせに思えるメンツだが、各時代の代表作家を選り抜いたと思えば、納得がいく。さしづめ出品作品の年代として、1970年代(中谷)、80年代(三上)、90年代(八谷)と時系列に沿って整理することはできるけれども、彼らが「何も生み出さなかった」(カオス*ラウンジ宣言)とする00年代の日本のアートシーン(マイクロポップネオテニー)の代表的な作家の名前は見出せず10年代に至っている。その10年代を代表するのはもちろん、カオス*ラウンジとそのお仲間たちである。1980年代の三上晴子から90年代の八谷和彦に繋がる線はメディア・アートだ。八谷は阪神大震災の表象を目指す。同様に、宇川直宏もサンフランシスコ地震阪神淡路大震災を結びつけて表象することを試みており、この宇川の2007年の作品を経由して、3.11以後の梅沢和木作品へと至る――と、想像上ではきれいに文脈を作ることができる。が、実際には入り口そばの一番いい位置にカオスラ(カオス*ラウンジ)関係作家(宇川も含め)の作品がおかれている。その上、入り口真正面に位置し、まず最初に目に入るタイの地獄寺にモチーフをとった磯村暖の作品が、この文脈から外れてしまっているのは明らかにおかしい。逆に、ドメスティックな日本(=「悪い場所」)を一要素とした展示のコンセプトを、ぼやけさせてしまうものではないか。畢竟、本展は災害をキータームに、他の有名作家をダシに“カオス*ラウンジとその周辺のアーティスト”の作品を位置付け=レペゼンしようとした試みである。このような策動をこのまま放置しておいていいものなのか?

とはいえ、上記は少しでも知恵をつけている鑑賞者なら、すぐに気がつくレトリックである。現代アートのロードレースゲームを勝ち抜くために、たまたま傍にいたプレーヤーと共闘して他のチームを出し抜くことは珍しくもない。本展ではしかし、カオス*ラウンジが展覧会を構成する上でより以上に重要な要素として完全に見落とされていたものがあった。それは、次に述べる空間性である。ものとものの配置が導く緊張感にも似た、素材そのものと場の醸成するようなある種の“気配”である。 今回の廃ビルのように特殊な、そもそも美術鑑賞のためではない空間で作品を見せるときには、その空気感を作ることにしか成功の鍵はない。空間性への配慮を怠れば、そこに作品を在らしめる必然性の結び目がゆるみ(そもそも何故ここで作品を展示しているのか?)、“美術だ”と担保する真正性が抜け落ちた結果、皮肉や批評といったメタ言語を扱った作品が、一周まわって“間抜け”に見えてしまう。すなわち、スベっている(実際、三上も八谷も、ほんのお印程度に置いてる感が否めず、壮大なテーマを持つ作品は全てスベって見えた)。スベッた作品は、ゴミと見紛う有様なのだ。これはキュレーションの失敗である。おそらく、気恥かしさの一因は、ここにもあっただろう。ユーザー目線にたてないデザインにはそもそも存在の価値がないように、鑑賞者の目線をないがしろにするキュレーションは無価値だ。展覧会はキュレーター自身の思考の飛躍を見せる場ではなく、手助け(キュレート)し、作家自身の思考の飛躍をこそ鑑賞者に読み解かせるための場であるからだ。 

 

どういうことだろうか。人がいた痕跡というものを考えてみよう。ここで筆者自身の思考が飛躍することをどうかお許し願いたい。さっきまで、人の座っていたデスクの上には、身の回りの種々雑多な品々が散らばっている。ただ散りばめたのではなく、自分の手の届く範囲——せいぜい椅子を中心にした半径60cmにそれらは置かれる。デザイナーは、人の所作を逆算し、<ポジ/ネガ>の関係のように人の動き・形(ポジ)から反対の形(ネガ)を導いて、体にフィットするプロダクトを作り出す。現代美術家は、同じ<ネガ>を用いたとしても商品製作が目的ではなく、“さっきまで人がいた”という場の雰囲気——そこから拡がる想像力を視覚で喚起することや、視覚—脳そのものに、なんとなく自分ひとりの存在がそこにすっぽりと包まれてしまうような超越性を感受させること——そのものにフォーカスを絞る。気配を出すためには、空間と作品、作品と鑑賞者の条件が一揃いとなる。ただ作品だけあればいいわけではない。ここに陥穽がある。作品と展示コンセプトだけあればいい、という単純な考えは、“空間性への配慮”を欠落させるだろう。先ほどのデスクで例えてみたとして「置かれる小物そのものの質が人の気配を伝える」ことがあるにしても、それが機械的な配置だとしたら、どうだろうか。ペン、メモ、目薬、時計……。それらがデスクの上で同一線上に整列されていたとしたら——。ランダムに散らばる小物からは、『ここに座ってモニターに向かいつつ、目薬を無意識に放ったのだな』とか『右にペンや付箋が放ってあるのは右利きだからかな?』など、様々な連想や体験を得ることができる。一方、きれいに配列された物からは、ただ『几帳面な人なのかな』という一つの印象しか受けないだろう。なぜか。そこに“人がいた”という痕跡を「物が配列されている」という一つの動作の結果からしか認めることができないからだ。究極において、ものの配置は意味につながるし、意味は強度につながる。

 

ここに一揃いの靴と靴下の石膏型のオブジェが映る大判ポジフィルムの作品がある。靴下は、あたかもマグリット≪赤い靴≫のように直立し、脛まで引き上げられたままで型取られ2つの不気味な洞穴を覗かせている。展示室の壁面には同じ規格のライトボックスと大判ポジフィルムが組み合わさった作品が並んでいる。同時期にとある画廊で行われていた「吉野和彦」展の一風景だ(筆者は「慰霊のエンジニアリング」展を観たその足で本展を拝見した)。鑑賞者はまず、シュルレアリスムに題材を取ったパスティーシュ的作品かと不思議がるかもしれない。が、作者によると、人間が身に纏う品々のうち、靴と靴下は一番体に密着した装身具なのだという。それを持ち主不在の(透明人間が身に纏ったかのような)ままで自立たらしめること、そこから鑑賞者の想像力を、不在の持ち主たちに差し向けること——。さらにポジフィルムに写像するのは、第三者(プリンター)の解釈による現像時のズレを無くすためだと話す。それぞれ、持ち主の異なる靴下/靴(の石膏型)のオブジェと、そこに眼差しを向ける作者の間に、筆者は、こういってよければ、母子関係——まるで神と私の対峙——に見られるような根源的な凝視、相即した関係性があることに気づき、否が応でも作品の強度は高まって見えた。同様の“根源的凝視”とも呼べそうなものの反復が、出品された他の作品の上においても見てとれる。このように意味があると悟ったとき、作品—展示の強度は上がって見える。ここから得られる考察は、ある種の展覧会鑑賞は、ミッシングリンクを探す行為にも似ているというものだ。その場で作品の意味に思い至ることができなくとも、様々な意味に担保された(必然性を帯びた)良い作品というのは、内触覚によって感じ取ることができるし、キュレーターの饒舌がそれを台無しにしてしまわない限り、鑑賞者はいつまでも愉しみに浸ることができる。良い作品は、様々な連想=意味を生む契機を孕んでいる。だからこそ、机の上に無意識に散りばめられた小物は人の目を惹きつけるのだ。

 

やや遠回りしてきたが、筆者が言いたいのは、「慰霊のエンジニアリング」展の作品の質、“空間性への配慮”を欠いた配置のバランスは、形式的に高められた伝統的な祭事を扱う美術展でなく、高校生の文化祭のテクスチャに限りなく近い、ということだ。先述したように、ぞんざいな扱いは受けるべきでないはずの作品が、ほんのお印程度に置いてあったことに目を逸らしたくなるような気恥かしさを感じてしまったのはその通りだが、それと同時に、80年代アートの回顧展や高校生の文化祭を見てしまった時のような“ナルシスティックな雰囲気”に対する違和感や気恥かしさを禁じ得なかったのも確かなところである。陶酔的な学園物語に感動しきり、それも権利だと開き直った“嘴の黄色い”生徒達による内輪向けの祭典、そしてそれを暖かな目で見守るのもまた、関係者というお墨付きを頂いて狭き校門をくぐり抜けてきた良き理解者と身内のみ……。上履きの踏み跡で汚れのついたプリントの裏面——ではなく、地面に直置きされ踏み荒らされたキャプション。青春の1ページを飾るように体操服を汚しながらみんなで描いた思い出のタテカン——ならぬ、集団お絵かきオフ会のノリの再現に失敗したようなキャラクターの哀感漂う集合絵。直接壁にはられた梅沢作品に至っては——彼はもう手荒に扱われるべきレベルの作家ではないはずなのに——幕引き前に杜撰な接着のせいで剥がれてきてしまった学内イベントのフライヤーのように、くたびれ隅角がめくれかけている(実際、筆者が見たのは最終日前日だったのではあるが)。

 

カオス*ラウンジが擡頭してきたのは、2008年(まだポストポッパーズという名称だった)頃であり、この時期インターネット上ではまさに、ピクシブツイッターフェイスブックなど産声をあげていて、このような時代の趨勢を反映して起こるべくして起こったネット発の運動体(コレクティブ)の先駆となった。当時の日本はリーマンショックに端を発する景気冷え込みと、追い討ちを掛けるようにして行われた大手企業での派遣切りで、多くの人々が職を失う年にあたっており、その2年前である2006年には「NEET」や「勝ち組/負け組」、「下層社会」などという言葉が流行語大賞にノミネートされるなど、これまで1億総中流とされていた“豊かな日本の闇の部分”にスポットが当てられ始めた頃に当たっていた。そのときに、この運動体は全てが繋がり、必然性を帯びて見えた——。

筆者がカオス*ラウンジによる展示を始めてみたのは2010年、高橋コレクションのときである。その当時、屈託した大学生だった筆者が受けた鮮烈な印象は、次の通りである。つまり、抑圧(ピクシブ上でも等閑視)されてきたヲタク=社会的弱者=負け組としての無名のクリエイター集団が、オフ会(ポストインターネット的現実)を通し、謎の熱気を帯びていき、勝ち組/負け組の観念が固定しきったスタティックな格差社会に対して、まさにカオティックな表象の反撃を仕掛けていく……。今のカオス*ラウンジには、そのような初期の熱量が果たしてあるのだろうか。ネット(ピクシブ)上で共有された謎の共同幻想=ゆめにっき(!)に媒介され、結実したキャラクター表現の極北によるファインアートへの猛攻は、一段落し、ある意味クリシェ化したとさえ言える。キャラクターの美術作品の現在形が見たければ、新宿眼科画廊や四谷のアートコンプレックスセンターに行けばいい。さしづめ、カオス*ラウンジが用意したキャラクター絵画=美術の文脈の末裔達と言える、BL・エログロ・ゴスロリなど既存の巨大な二次創作ジャンルを飲み込み肥大化しきった“キャラクター美術作品”の一大見本市で、箸にも棒にもかからぬ“様々なる意匠”と出会うことができるだろう。ここで筆者は一つの仮説を取りたい。同じようなマニエリスム的情況が、半世紀以上前の日本のアートシーンにも見出されるのではないか。

 

1950年代のアンフォルメル旋風は、有象無象のクリエイティビティのはけ口として働いたと説明されるのが一般的である。戦後間もない56年に日本に紹介された熱い抽象——アンフォルメルは、戦中期に抑圧されていた人々の中の怪しい表現欲に火をつけ、形を与える契機として働いたのではないかという言説だ。だが、ここ2010年代の日本においても、同じような力学が作用しているのでないか。幼少期に作品体験の原風景として現れたアニメーションは、しかし大人になるにつれ抑圧を受け内潜を強いられることとなる。そのまま二次創作なる趣味性(=シミュラークルとの戯れ)へと回路が振り向けられ、充足するのならばそれでいいはずだが、もう少し色気を出して、作家性(=自己との対峙)へと自覚的に回路を振り向け、現代美術のゲームで戦おうとするなら話は別だ。アニメへの嗜好を受け入れるかどうかの2択で現代の美大生がどれだけ頭を悩ましているか。

一方で、美大生でなくとも、自身のうちに表現欲がやみがたくあり、事象に記号が与えられるように、内面が分節化された際、美術の表現手法(シニフィアン)となったアニメ絵が一番身近にあったため選び取ったということも、往々にしてあるだろう。だが、あくまでアニメ絵はいくつもある表現手法の一形態であり、自身が必然性を感じて選び取ったにしても、しかもすでに様式化し、いわんや美術の根幹を揺るがし得るような仕事がそこから出てきえないのが明白になっている現在、作家性に目覚めた若い人々の目の前に、手垢にまみれた表現手法としてのアニメ絵が横たわっていることは必ずしもいいことだとは言えないのではないか。そろそろ美術史を前に進めていくべきだ。アンフォルメルは、57年以降に読売アンデパンダンが過激化したことで終結したとされる。この、アンフォルメル旋風に引き寄せて考えてみること。つまり、ヨリ過激化の一途をたどり、桁上げされること——そこにも、作家らのクリエイティビティの可能性を、この地獄のようなアニメ絵の桎梏から解放させる一つの解があるのではないか。

 

先にも述べたとおり、運動としての必然性を失ったいま、カオス*ラウンジは解散すべきだと思える。黒瀬陽平はインディペンデントキュレーターになり、もっと自由に、しがらみから解かれて活動したほうがいい。藤城嘘梅沢和木も同様だ。そのうえでカオス*ラウンジが美術史に残るかどうかは、権謀術数をもって政治的に動き回るのではなく、評価の決着自体を、時代の趨勢のみにゆだねる。その方が、美術自身のためにもなる。

(2020.07.27追記)

このような形でカオス*ラウンジが終焉することは、全く予期せぬことであった。しかし、時代の潮目が変わった現在このタイミングで、文章を公開することとしたい。

コロナ禍を有意化し、解釈する

いまのわが国は喩えるなら、東京オリンピックと経済のことしか頭になく、社会がどうなろうと利権や保身を優先して止まないメクラな政治家達によって鼻面を引き回されている巨大な牛だ。峻烈な風が吹きつける中、巨躯を揺すってあちらにブレ、こちらにブレているうちに、捕まる体力のない国民=社会的弱者から奈落へ振り落とされていく。
 遡ること12年前、2008年のリーマンショックの時にも、やはり社会的弱者は振り落とされ、捨ておかれた。このことは、同じ年にうまれた「年越し派遣村」という言葉や、その前後によく聞かれた「勝ち組」/「負け組」といった2分法のことを思い返してみるだけで自ずと明らかになる。前者の言葉は、当時の麻生政権の無策のもと、路地に溢れ出した失業者を救済するために民間団体が年の暮れに行った避難所の提供や炊き出しを指す。後者は、<ノブレス・オブリージュ>とはまるで無縁の高所得者と、<バブル崩壊に発端する経済低迷>の中で非正規雇用に流れていった——俗に言う下流社会の——貧者との間にある固定的な階級差を象徴する。そこには為政者が弱者に手を差し延べる本来あるべき理想的な社会の姿形は微塵もなく、ただ疲弊しきった人々に向けて「負け組」と吐き捨てる強者達だけがいた。そして、こうした弱者切り捨ての価値観は、総じて“自己責任”というマジックワードと表裏一体の関係を持つ。

 

 政治は、“自己責任”というマジックワードの上に居直りを決め込んで、所得の格差を拡げ社会を劣化させるグローバル資本主義下のネオリベ経済を最優先させ続けてきている。これが露骨に現れてきたのが、第2次安倍内閣での2014年の増税時だろう。当初社会保障の財源に“全額”充てるとして値上げされた消費税は、蓋を開けてみればほとんどが国の債務充当に使われていた(*1)。一方で、アメリカの言い値で買わされる軍事品の購入に充てられる軍事費は、毎年最高値を更新しながら計上され続けている(*2)。さらに、格差の問題は、政府の責任ではないと捉える日本人が多いという統計結果があるらしい(*3)。以前、「“自己責任”という言葉の裏面は、“政府の無責任”だ」という市民の声をどこかで耳にした。私はこれをもっともだと思う。付け加えて言うならば、“自己責任”というワードは、逆に弱者によって現在頻発されているところにこそ、そのマジックワードたる所以がある。
 中西新太郎関東学院大学教授によると、明日にもわが身の生活の基盤が崩れかねない生活困窮者である若者達は、これ以上状況が悪化することを恐れ、現政権の支持へと靡くという(*4)。その結果、強者の理論を内面化し、精神的な隷属化の過程が完成させられる。あるいは、強者に媚びお覚えめでたくなろうと“俗物根性”を丸出しにしたネット右翼達も、同様に弱者と見做していい。傲慢で老獪な為政者達は、まさにそこに漬け込んでいき人心を支配しようとするものだ。自らの立場を盤石なものとするためには、まず権力を誇示したあと、弱者での連帯行動を阻害する“自己責任”論を称揚するだけでいい。そして現政権は、歴代最長の栄を賜るにまで至った。

 

 さて、このコロナ禍では、一体だれが弱者か。無論、金銭的余裕を持たぬ人々が依然弱者であり続けるということに反論の余地はない。だが果たして、金銭的余裕がある人々は、勝者になれるのだろうか。その保証がないことに、第1のポイントがある。このグローバル資本主義の中のルールを決定的に崩壊させた新しいルールのもとでは、金銭的余裕があろうとなかろうと、社会全体を覆うウイルスという敵を前にしたとき、すべての人は生身を持った弱者となる。つまり、『志村けん』のような有名人だろうと、『ボリス・ジョンソン』のように国を治める首長であろうと全く変わりはなく、感染すると死亡率1%の純粋に数学的な世界に叩き落とされる、上に——
 その上に、国境を越えて“グローバルに”自由に活動する、あるいは豪華クルーズ船に乗って世界を漫遊するような人々、即ちある程度暮らしに余裕を持ち、文化レベルも高い——先ほどの区分で言えば紛れもなく「勝ち組」に属するような——社交的な人々であればあるほど、感染リスクも高くなる。東京都の地区別の感染者数を見てみると、世田谷区・港区で明らかに高いことが、これを能弁に物語っている。ではわれわれは、手をこまねき事態の推移を見守ることしかできないのだろうか。そうではない。生活困窮者=弱者が強者に押し潰されないために採るべき方法は、権威主義を内面化して防衛するということだけではない。もう一つ、むしろ強者に伍していくための方法がある。それは連帯だ。

 

 あるいは、このオーバーシュートを目前にしたコロナ禍を調伏するためには、連帯“しか”方法がないはずだ。人と人が近づけば感染し、マスクを付けなければ感染率が高まる。買い占めの渦の中でパンデミックが起こるのならば、一人の感染の向こう側にいる社会の中のアノニマスな人々と連帯し、自分の兜の緒を締めることができるかどうか、あるいは、本当に物資を必要とする人々のことを想像して、ヒステリックな欲望に歯止めをかけることができるかに万事懸かっているはずだ。だが、わが国の為政者は、これまで人々の連帯意識を高めるための支援を何ら行ってこなかった。むしろ、原発問題・基地問題・TPP問題など、地域共同体の連帯意識が高まる契機は無数にこそあれ、冷酷無情にも冷や水をぶっかける方向でしか働いてこなかった。富国強兵にばかり情熱を費やし、市民の共同体意識を醸成するようなことは全くしてこなかったツケが、ここで回ってきた。
 のみならず、現政権は、まさに現在進行形で弱者切り捨てをしている只中である。職場では、既にコロナ解雇が始まっている。国内の失業者は、現在1600人(4/2現在)を数え、これからも急増する見通しだという。実際、アメリカではリーマンショックの時の失業率を超えたとの報道があった(*5)。彼らを捨ておき現政権は、次の衆院選・総裁選で有利に働くためのアリバイとして、対策案を牛歩で練っている。その間、捕まり続けることのできなかった人から奈落の底へ落ちていくとしてもだ。羽振りの良さやアリバイ工作の2重基準で面上だけ繕ってきた、現政権の盤根錯節における “無能力”——これが第2のポイントである。

 

そして第3のポイントは、災害列国・日本という悪い場所の特異性に関わる。多くの識者がこのコロナ渦でNY・イタリアのように国内も医療崩壊する危険性を指摘している中で、もしも災害が起こったら・・・。今後30年以内に70%の確率で起きると予測されている首都直下型地震が、万が一起こったら?または、2016年4月に起こった熊本地震が、もしも今年の4月に起こっていたとしたら?また、ここ数年、7-8月には毎年どこかの地域で豪雨に見舞われている。もしも、例に漏れず今年も集中豪雨が起こるとして、それまでに感染収束の見通しが立っておらず、多くの人が避難所へ殺到する事態にまで至ったら、人々は感染リスクに曝されながら明けない夜を過ごすことになる。あるいは感染者はいないかもしれない。しかし、どれほどの不安が被災者に襲いかかるか。考えただけでも戦慄する。だが、一方でコロナウイルスによる若者の致死率は中年・老年のそれに比べて低いという。2021年にオリンピックも延期になったこのタイミングで、もしも首都直下地震が起こったら、宜なるかな、それはもはや天命としか受け止めようがないだろう。
 そして——、多くの中高年が死ぬ。日本はいま、少子高齢化で世界の先を行く。とある識者が「日本が浮上する契機は世界に先駆け少子高齢化問題の解決策を提示すること」と言っていたらしいが、もしもこのタイミングで、首都直下型地震が起こったら——、利権なしでは何もできない頑迷固陋な政府も何もかも崩れ去って、日本は再び浮上するだろうか。人口動態が逆転する日に向けて、われわれは準備を開始しなければならない。

 

 


(*1)「<ロングインタビュー> 井手英策・慶応大教授」
https://www.tokyo-np.co.jp/senkyo/kokusei201607/ren/CK2016070802100023.html
(*2)「防衛予算案5.3兆円、過去最大 高い米製品の購入続く」朝日新聞朝刊2019年12月20日
(*3) 「<ロングインタビュー> 井手英策・慶応大教授」
https://www.tokyo-np.co.jp/senkyo/kokusei201607/ren/CK2016070802100023.html
(*4)「「強権」支持する若者って誰 恵まれた層とギリギリの層」朝日新聞朝刊2020年2月20日
(*5)「米の失業申請、週328万人 世界恐慌時に匹敵の恐れ」朝日新聞朝刊2020年3月26日

 

『知の技法』第Ⅰ部へのあてつけ

 

私の嫌いな概念語に「問い直す」というものがある。知的な現代美術界隈が使いたがる傾向にあるように思われる言葉の一つだが、「問い直し」した結果、めぼしい結果が出たのかどうかまで追って書かれていることはほとんどない。つまり、「問い直す」という言葉はほとんど「何もしない」というのと同義のように思われ、単に発言者の強固な立場・主体をとある問題に際して温存するために使われているようにしか思われてならない。そして、何もしないと結果がどんどん悪くなっていくような事態の渦中にある者にとって、この「問い直す」という言葉ほど、内容空疎なものはない。

 

私たちが常識として捉え、生活の土台として無意識/無批判的に受け容れている習俗がある。たとえば、「問い直す」といった言葉は、その習俗のよってきたるところにある性格(地域の祭りとそれに代表される人々の排他性など)が矢面に立たされる時に頻発してくるものだが、ただ、その発言が安全に行われうる——騒擾を巻き起こすことなく——のは、他でもない当の発言者自身が、その地域コミュニティー・共同体の一員に属していないからだ。若しくは、属していたとしても、そこから物質的に何らかの恩恵を享受し、物心ともに依存しつつ生を営んでいるわけではないからだ。そのような虚偽の立場から発見された習俗とそれに由来する共同体の構成員の性格に関する考察、及び批判は全く無意味だと言っていい。何故か。これは、今にも緊急事態宣言が発せられんとしている国に身を置いてみればわかる。「問い直す」などという言葉が、どれほど無力で無意味か。一刻を争うような状況で「問い直す」という言葉が、どれほど空々しく、内容空疎に聞こえるか。

 

小さな共同体に対して、「問い直す」といった言葉で征服することに成功した言論はしかし、我が身の明日の生活に関わるような事態——それが言語によって分析し果せたはずの国民の「事大主義」といった類の性格によってもたらされるものだったとしても——に直面したときに、ふたたび賢しらぶった冷笑的態度で「問い直す」などと書き記してみたところで、それで一体何になるのだろうか。「問い直す」ことで、明日の我が身の生活を「立て直す」ことができるとでもいうのだろうか。

或いは今回(2020年3月7日現在)、日本は新型コロナウイルスの感染拡大によって一億総ヒステリック状態、若しくは総アナフィラキシーショック状態とでも言えるような状況になっているが、シリア・イラン・イラクはどうか。明日、自分が生きている保証はどこにもなく、一刻も早く状況を変えなければ自分は一瞬間後に死ぬかもしれないような状態で、慣習・習俗を分析し、そこから導かれる国民の性格を批判的に考察して、他にも補助線を色々と引き「問い直し」してみたところで、事態は一向によくならないし、のみならず——。

のみならず、時間の経過=憎悪の連鎖とともに、状況は益々悪くなっていくだろう。そのようなとき、本当に必要とされているものは、少しでも明日自分が死ぬかもしれない可能性を低減させてくれるための“何か”であって、人はその“何か”を探し求めるために血路を開こうとする。
一刻でも早く自分や身の回りの者が救われるための“何か”。その探究の途上においては、「問い直す」などといった賢しらぶった言葉は、全くお呼びではないのである。

犬の夢

季節は春、気持ちのいい生暖かい春の微風が流れる真夜中、犬の散歩をしている。幹線沿いの歩道だ。左手には雑居ビルやアパートが並ぶ。目の前をもたつく脚で歩く犬の腰のブレ方を眺めやり、寄る歳波に「ビッコを曳いているのだろうか?」と漠然とした不安を感じている。すると突然、左手に猫を見つけ、パッと犬は首輪を抜け追いかけて行って消えてしまう。老犬といえども本能は現役のままで、自分は過去幾度となくそうさせられてきたように、うんざりとしながらピロティ式のアパートの駐車場から路地裏の傍道へ、犬の名前を大声で呼びながらその跡を辿っていく。ふと胸騒ぎがする。程なくして、「ギャンッ!」という悲鳴とともに、表の幹線道路で衝突音が上がった。慌てて駆けつけると、案の定、下半身を引きずった犬の姿が行き交う車の合間にみえる。助けようと道路の真ん中へ飛び込む。しかし、犬は後肢を曳きずりつつ混乱し当て所なく逃げる。それを追いかけようとするが、車の交通量が多いせいで、ギリギリのところで追いつけず、通り過ぎてゆく車に行く手を阻まれる。危うくもトラックや軽自動車と真正面から衝突しそうになりながら、何台目かの車が走り去った後、ついに犬を避けた車同士がぶつかった。私の目の前でぶつかった方の車のフロント部分がぺしゃんこになってゆくのがスロー再生で見え、運転席のドライバーの命も助からないかもしれないという考えがさっとよぎる。幽かに、『このまま犬が轢かれて死んでくれれば治療費も浮き、自分の今の危険な状況も抜けられるのに』と思う。『死ねばいいのに』——と。

眼が覚めると、辺りは明るくなっていて、自分はひらけた空き地の小高くなった見晴らしのいいところへ寝そべっており、片手には犬が抜け出した首輪とそれに繋がるリードを持っている。目の前に、青空を背景にして、尻尾を千切れんばかりに勢いよく(腰までつられて)振りながら、嬉しそうな様子の犬が近寄ってくるのが見える。目は歓喜に潤み、少しやつれ、一晩自分も探していたのだ、会えて嬉しいのだ、という犬の気持ちが、あたかもはっきりそう口で言われたかのように直感で分かる。自分は、知らず知らずにうっかりと、犬を追って路地裏に迷い込むうちに睡り込み悪夢の中へ迷い込んだのだと悟り、大いに犬の(そこを撫でられるのが好きなのを知っているので)耳の後ろの首の皮のたるんでいる付け根の部分を撫でてやった。そして、再び会えた喜びを分かち合った。

犬はオレを探していたのだ。

夢から目覚め起床すると、犬はもうこの世にはいない。そう3年前、死んだのだ。
死の間際、正月に実家に帰省した際、頭も呆けて下半身不随になった犬を見て、可哀想にと思った反面、心のどこかでオレは『早く死ねばいいのに』と感じてしまっていた。東京に戻ってからも、犬のことを考えるとその感情は、日に日に募る一方だった。そんな自分に嫌悪を催し、なるべく犬のことは考えまいと努め、そして実際、忙しい日々のなかで段々と忘れていった。その数ヶ月後、母から「〇〇(犬の名前)が逝きました」とメールが入った時にも、まず胸の重荷が降りたように安堵し、そのあとで空虚感とおしるし程度の悲しみを感じたが、涙は出なかった。自分が欲しいと言って親の反対も押し切って飼い始め、以降ずっと一緒にいたはずなのに、悲しみの涙で弔ってやることもできない自分の非人間的な心を責め、やがてそれも薄れていった。逆に悲しみを感じない自分が不思議に思え——事実、小さい頃は犬が死ぬことを考えただけで涙が出たものだ——、疑問だけが残った。だが、『犬はオレを探していたのだ』と、その可能性ゼロではないのだと、ようやく気が付いた。

そして夢の中にまで会いにきてくれた。一晩どころか3年もかけて。はち切れんばかりに尻尾を振って。できることならいつまでも目覚めず、そのまま耳の裏側を撫で続けてやっていたかった。

犬が死んで3年、オレは犬のためにはじめて嗚咽しながら泣いた。

 

「したがって、涙を流すとは、僕らの内奥の歓喜を語ることだ」
アラン『精神と情熱に関する八十一章』p.191

 

 

「フラット感とは」考察してみた[思考実験]

1. 具体的な位相において
フラット——「平らな」、「起伏のない」
と、辞書には書いてある。「平らな」という言葉からは色々な語句を連想することができるが、まず私が第一に連想したのは「平らな丘」や「平らな関係」といった言葉である。対して「起伏のない」という言葉からは、「起伏のない山」、「起伏のない感情」といった言葉が連想され、いずれも逆は成立しえないように思われる。すなわち、それぞれをてれこにした状態である「平らな山」、「平らな感情」や「起伏のない丘」、「起伏のない関係」といった言葉は詩的言語としては成立しているかもしれないが、日常言語の語法からはやや遠さを感じざるを得ない。「平らな山」を——山と呼べるのだろうか。おなじく「起伏のない丘」というものが存在するだろうか?どこまでも広々とたおやかに傾斜してゆく丘のことを、人は「平らな丘」と呼ぶはずだ。山についても、人はなだらかな山容の<御池岳>を「起伏のない山」と呼び、逆に峻厳極まる連峰である<槍ヶ岳>を「起伏の激しい山」と呼ぶ。
このように整理してみると、「平らな」と「起伏のない」と言ったときの違いが明らかになってくるのではないか。すなわち、嵩が大きく高低差がはっきりと見てとれるものに対して使われる形容詞は「起伏のない」という言葉で、差がそれほど明確ではなくかつ平らであることも当然だと思われるものに対しては「平らな」という形容詞を用いる。これを踏まえれば、抽象語を形容する——「平らな関係」・「起伏のない感情」といった——二つの語<平らな>と<起伏のない>の違い、ひいては<フラット感>という語の正体も解明できるのではないか。

2. 抽象的な位相において
先述した「平らな」と「起伏のない」という言葉の扱いの違いは、改めて<形容される対象そのものが、元から大きな差異を前提としているか否かで決まる>と言い換えることができるだろう。つまり、丘は(座右の辞書によると)「山より低く、傾斜の緩やかなところ」を指すので「平らな」と形容され、反対に山は「周りの土地よりも著しく高くなったところ」を指すため大きなまとまりとして「起伏のない/激しい」と形容されるのだが、そこから出発し、「平らな関係」・「起伏のない感情」と言った時の二つの言葉の違いについても見てみると、一つの仮説を立てることができるのではないか。すなわち、「関係」は丘のようになだらかだが、「感情」は山のように峻厳で高低差も激しいものである——と。
しかしながら、時として人と人との間の関係は険しいものに陥るし、感情の緩急自体も人それぞれで十人十色だ。私たちは無感情と呼べそうな性格の持ち主と出会うこともある。ならば何故いわゆる“フラットな関係”を「起伏のない関係」と言わず「平らな関係」と言い、“フラットな感情”を「平らな感情」ではなく「起伏のない感情」と言うのか。あるいは、そのように言われることを“自然らしく”感じるのか。これ以上の分析は基準点が曖昧だと難しいと思われるので、ここで問題を言い換えよう。何故、この私は「平らな関係」・「起伏のない感情」と言う代わりに、「起伏のない関係」・「平らな感情」と言うことを不自然に感じてしまうのか。
ミシェル・フーコーによると、個々人の知の営みは<エピステーメー>と呼ばれる一時代の知を劃する枠組みによって規定される。2020年に生きる私は、2020年の<エピステーメー>に従い科学法則に従い万象が遷移していくことを自然に感じているのだが、言うまでもなく、17世紀に生きていた人々には信仰の教えるところがすなわち知の枠組みであり、彼らにとっての自然であった。信仰から外れたものは異端とされ、社会から排除されていった歴史は、書をあらためるまでもなく明らかだ。自分が信じて期待しているところの予定調和——セカイを構成する決め打ち的な因果関係——それが、少なくとも私たちが“自然らしさ”を感じるところの定義であり、それゆえに自然さから隔たった結末は興味をそそる。山は聳え、丘は遠望に渡りたたなわる。それらは、私が期待し事実そうに違いないと信じきっていなくとも、そのようにして世界に在ることに変わりはないのだが、これを「関係」や「感情」と入れ換えたときに増す危うさは、しかし、私以外の同時代人にも自然なものとして感受されたとき、一つの時代を劃するところのエピステーメーとなり確度を上げるだろう。これらの前提に立って、私がそれぞれの組み合わせに“自然らしさ”を感じる理由として、そもそもなだらかなものである関係は「平らな」ままであるように期待され、また、起伏のある感情は、否定的に「起伏のない」ものとして期待されているからだと断定する。

3. フラット感とは
以上の考察から、ビジネスや日常のシーンにおいて耳にする<フラット感>とは、対自的には感情を否定=抑圧する努力を指し、対他的には関係を肯定=維持する努力を指す、ヤーヌス的二面性を孕んだ言葉であると結論する。つまり、自分に向けて使われる<フラット感>は、フラットな感情への期待、すなわち起伏のある自己の状態を否定し能動的に“フラットにさせる”意思のことを指し、一方で他者との間で使われる<フラット感>は、フラットな関係性への期待——二者関係を能動的/受動的に“フラットのまま”維持し続ける態度のことを指す。自分に対し「フラット感を大切にしたい」と言う場合、“フラットにさせる”意思のことを指し、他者に対し同様の発言をする場合は、関係を“フラットのまま”維持し続ける態度のことを指す。なんとなく<フラット感>を口にする場合は、おそらく両方の意味が陰陽太極図のように混淆し、どちらの意味もあわせもつ場合がほとんどなのだろう。

 

新しい公共性の出現

一体彼らが何を意図としてこのような展示を構成するように至ったのか、そのような疑問が浮かんだのはキュレーションの枠組みがこの数年来の「芸大油画3年次進級展」(以下、「3年次進級展」)の中で特に今回の展示において強いという風に感じられたからでもあるだろうか——本展で示されたキュレーションの枠組みとは“都市(=共同体)”である。以下、ステートメントを引用する。

f:id:hyaku2hyaku:20190120110800j:plain

内海拓《COMFORT ZONE》

             

「新しい入出力」=「New Input/ Output」の略称でもある『NI/O』は、新たなモノ・コトが持ち込まれたり、持ち出されたりする事で都市としての代謝を繰り返します。個別の作品だけでなく、住民同士のぶつかり合いや連携の結果として立ちあがって来る都市の姿も、本展覧会の見どころです 

 

今回、目立ってここ数年の「3年次進級展」と違っていると思われた特徴は、会場内に小屋のようなものを作りその中で自作(の平面や立体)を発表している学生達が多かった、ということだ。そして、鑑賞者が3331ギャラリー内を歩くと、まるで都市を経めぐるような感覚に囚われる——そう、都市の中にあるバザールを覗きながらそぞろ歩くように——のは恐らく、この小屋の効果も一役買っているに違いない。さらに三度笠をかぶる旅人(ゲーム『がんばれゴエモン』に出てきそうな)風の格好をしたパフォーマーが会場を回遊しているなど、どことなくRPGゲームの世界観のようにも思われた。そこで、どこまで意図された結果なのかは分からないが、本展はRPGを意識して設計されたものであるのではないか、と仮説を立ててみたい。

 

さて、実は、筆者は本展を2度見ているのだが、1度目は初日に展示を拝見し、それも19時を既に回っていたような時間帯だったため、オープニングパーティーが行われている最中でもあった。そのため、会場内には学生はおろか鑑賞者の姿もほとんど見当たらなかったし、まだ作業途中のような作品も中には残されていたのだが、その誰もいない会場内で見る主人のいない小屋(のようなもの)は何の感興を催すことはなく、むしろつまらない・寂しい印象を与えるものであった。しかし、2度目に見たときの印象はそれとは真逆なのである。たとえば、キャラクターが全く出てこないRPGに面白みを感じることができるだろうか。人がいて、成立する世界。都市とはそういうものである。だが、さしずめ芸術は、人がいなくても成立する境地を目指すべきものなのではないのか。

 

これと似たような性質の話がある。つい先日だが、辰野登絵子の展覧会を埼玉県立近代美術館で見た。2時間に及ぶ関連トークイベントを間に挟み、その日は2度展示室に足を運んだのだが、最初人が多く作品がよく見られないような状況だった会場も、トーク終了後いち早く講堂を抜け再び人のいない状況で眺めたときとはかなり違った印象を与えるのであった。規則的なグリッドのシリーズ作品が、誰の目にも触れることなく、展示室の一角で、だが確実に自づからの存在の輝きを放ち、自足しているように見える“感覚”、そのとき筆者はすかさず“美しい”と感じた。まるで、美しい自然を目の当たりにしたときのように、である。

 

その経験を思い合わせると、この度の「3年次進級展」の性質は展覧会というよりもイベントに近い。いわゆる“ギャラリスト”という仕事の醍醐味というものが「閉廊後の誰もいないギャラリーでひっそり作品と向き合えることだ」というのは美術業界の言い草だが、逆にイベントであれば、誰もいない“お祭り”ほど虚しいものはないだろう。畢竟、この展示は展覧会というよりも文化祭に近い。感覚としては、本ギャラリースペースにて昨年行われていた「SNS展 #もしもSNSがなかったら」により近い。おまけに、「このアプリを評価してくだい」と言わんばかりにレビューを提出するための(顧客心理をくすぐるような)手練手管の尽くされたカードを入り口で手渡される。まさに、フィードバック系に慣れ親しんだデジタル世代ならではの行為ではないか。

 

とはいえ、最初にも書いた通り、これはキュレーションの枠組みへの批判である。個々の作品を見ていくと、面白いものも多かったし、新しい視覚表象に触れられたことへの喜びも素直に感じることができた。なぜ、小屋(のようなもの)をしつらえるのかと考えると、彼らは〈パブリック=ギャラリー=グループ展〉に〈プライベート=自室=個展〉をインストール——それも騒擾を起こすことなく——することで、スマートフォンによりいつでも“心地の良い空間”にアクセスできる身体感覚を、アナログなやり方で、等身大に表現しているのではないか、とも思われるのだ。一言で言うと、“公共性の概念の拡張”という変化がそこに見て取れるのではないか。それならば、逆ベクトルの行い、即ち〈プライベート=自室=個展〉に〈パブリック=ギャラリー=グループ展〉をインストールし、その新たな経路——「新しい入出力」=「New Input/ Output」——を補強することも可能なのではないか。いずれにせよ、今後どのように技法を洗練させ、新たな才能が頭角を表すか、その萌芽を予感させるような展示であったことには、間違いない。

 

6月後半

25日 月曜日

会議のあと四谷三丁目へ行く

四谷未確認スタジオ Open studio


f:id:hyaku2hyaku:20180625195224j:image

本日一日限りのオープンスタジオで、これが公式にスペースをお披露目する初の機会となる。スペース自体は5月から着工していた模様。とはいえ、元銭湯であった場所柄が十分に伝わる内装は残しており、脱衣所と思われる鴨居をまたぐとほぼ手付かずと言っていい状態である。主宰の黒坂祐氏はこれまでセンチメンタルな映像や味わい深いペインティングを発表し、注目を集めてきた作家で、表現の多様性に私は非常に興味をそそられるものがあると思っていたが、この度のセルフリノベによるスペース立ち上げで、これから私は僭越ながら「1991年生まれの極北」と彼のことを内心で呼ばせていただくことに決めた。このスペースの帯びる独特な雰囲気は、氏の作品同様様々な読み込みが可能である。たとえば東京の東側を中心に現在spiidの青木さんらが率先して行っているアートスペースの立ち上げで出来た場所との比較からまず言うと、それら古民家の壁面を白く塗ったり壁面を新たに立てたりし、内装を画廊空間にした外観のみ古く中身はモダンなホワイトキューブといったような場所とは違い、そもそも白い壁面が一面しかないし、廃業当時の備品をそのまま残している点ーーたとえばシャワーや湯船などーー違いを打ち出す装置として意図的に際立たせている(ように見える)。まず、その点は黒坂氏曰く、既存のそれら“オルタナティブアートスペース”は、ホワイトキューブ批判に徹しきれていない、とのようなことだった。ホワイトキューブ批判とは、美術の権威付けを行う機関を批判するもので、つまり、通常の作品評価のプロセスが「いい作品→権威を帯びる」であるのと逆立し、「権威を帯びる→いい作品」となってしまう美術館や画廊の官僚的なあり方、もっと言うとそこにいる人々を批判するカウンター的な考え方だ。それが、“オルタナティブアートスペース”もホワイトキューブの方法論を踏襲することで、同じ轍を踏んでいるという意味である(おそらく)。例えば「あをば荘」の水道など、一概にいうこともできない例もあるはずではあるが、黒坂氏の言うところは、美術の原動力である“乗り越え”を感じさせ、私は同世代として非常にそれを応援し、評価したいと思わせられた。もうひとつ、私が入り口の敷居をまたぐと同時に感じたのが「あ、これスカイザバスハウスだ」というデジャヴュであった。当然どちらも元銭湯なのだから似ていることはあってもおかしくない話のはずなのだが、建建物全体も“木造”(2018年に!しかも四谷で!)だし、ファサードの形も非常に似ている。だが、内装はことごとく違うのだ、言うならばこちらは「スカイのお化け」となるかもしれないが、その点都内に銭湯を使ったアートスペースはスカイだけであるはずだし、建物の大きさも充分で「双璧をなす」と言ってもーーそれは今後の黒坂氏の頑張りにより充実させていくしかないのであろうがーー過言ではない(というのは多分に私の期待を込めて言っているのだが)。それを伝えると氏は実際にスカイには足繁く通い内装をことごとく頭にたたきこんだのだと言っていた。日本を代表するトップギャラリーと似せつつ全く違うポイントを明確に打ち出すことで、おそらく海外アートフェアで稼ぎまくるG9批判にも繋がっていくし、その実やはり「ドメスティックにある可能性」を探るという趣旨のこともおっしゃっていらした。もう一つ私が感じたのはAAWっぽさである。これも最初の話とつながりを持つ。もとの内装か残ったままうまく作品をインストールしていく行為は芸術祭一般にみられる方法論ではあるが、熱海で学生たちが展示をする行為はとある必然性を帯びる。なぜか。熱海はバブル経済の華やかりし頃、社員の慰安旅行などで成長期真っ只中の日本企業が落としていったお金で栄えていたが、バブル崩壊以降、開発は止まりその時の成長史観を残したまま凍結されたのだ。我々人類は自身が生まれた時代どのような文化が花開き栄えていったのかを絶えず探求するーーオリジンとはそういうものではないか?ーー生き物だと私は思っているが、その考えで行くとバブル崩壊以降の暗い日本に生まれた世代が自然と当時の雰囲気をとどめる場所に関心をそそられるのも納得できるし、アートの一つのあり方に自身のオリジナルを探すという意味があるのを考え合わすと、そこでオリジナルに切り込む意欲的な展示が行われるのはとある強度、すなわち必然性を帯びるのだ。そのような、強度としてひしひしと鑑賞者に伝わってくる必然性が私は、この四谷未確認スタジオにも確認できると思った。なにしろスタジオの雰囲気は熱海で感じた展示のある種の風通しの良さがまずあったし、未来少年コナンや横浜買い出し紀行に繋がるような、大きな文明が滅んだ、またはいままさに滅びつつあるなかでときおり忘れていたように動き出す前時代の歯車の持つノスタルジックな雰囲気というか、そのなかでも生を肯定しようと懸命に生きる健気な青年少女に感じるいじらしさというか、そういうものが、AAWと共通して見いだせる傾向であると思われたし、実際に黒坂氏は永らくAAWにも関わったおられたのだ。ある意味でこれは熱海の、バブル崩壊で止まった時間に生き徐々に滅びゆく場所の、東京への逆襲に違いないのだ。中途半端に廃棄された銭湯の備品が散在する中でところどころにーーそれらを否定するのでも肯定するのでもなく、ただバランスを保つことだけが意識されていたかのようにーー作品がインストールされており、これこそがイデオロギーを肯定も否定もせず、判断保留して据え置くバブル崩壊以降の平成に生まれた我々の距離感であり、表象であるようにも感じたし、そしてこれはいみじくも、平成最後の夏の始まりに起きた出来事であったのだ。