「フラット感とは」考察してみた[思考実験]

1. 具体的な位相において
フラット——「平らな」、「起伏のない」
と、辞書には書いてある。「平らな」という言葉からは色々な語句を連想することができるが、まず私が第一に連想したのは「平らな丘」や「平らな関係」といった言葉である。対して「起伏のない」という言葉からは、「起伏のない山」、「起伏のない感情」といった言葉が連想され、いずれも逆は成立しえないように思われる。すなわち、それぞれをてれこにした状態である「平らな山」、「平らな感情」や「起伏のない丘」、「起伏のない関係」といった言葉は詩的言語としては成立しているかもしれないが、日常言語の語法からはやや遠さを感じざるを得ない。「平らな山」を——山と呼べるのだろうか。おなじく「起伏のない丘」というものが存在するだろうか?どこまでも広々とたおやかに傾斜してゆく丘のことを、人は「平らな丘」と呼ぶはずだ。山についても、人はなだらかな山容の<御池岳>を「起伏のない山」と呼び、逆に峻厳極まる連峰である<槍ヶ岳>を「起伏の激しい山」と呼ぶ。
このように整理してみると、「平らな」と「起伏のない」と言ったときの違いが明らかになってくるのではないか。すなわち、嵩が大きく高低差がはっきりと見てとれるものに対して使われる形容詞は「起伏のない」という言葉で、差がそれほど明確ではなくかつ平らであることも当然だと思われるものに対しては「平らな」という形容詞を用いる。これを踏まえれば、抽象語を形容する——「平らな関係」・「起伏のない感情」といった——二つの語<平らな>と<起伏のない>の違い、ひいては<フラット感>という語の正体も解明できるのではないか。

2. 抽象的な位相において
先述した「平らな」と「起伏のない」という言葉の扱いの違いは、改めて<形容される対象そのものが、元から大きな差異を前提としているか否かで決まる>と言い換えることができるだろう。つまり、丘は(座右の辞書によると)「山より低く、傾斜の緩やかなところ」を指すので「平らな」と形容され、反対に山は「周りの土地よりも著しく高くなったところ」を指すため大きなまとまりとして「起伏のない/激しい」と形容されるのだが、そこから出発し、「平らな関係」・「起伏のない感情」と言った時の二つの言葉の違いについても見てみると、一つの仮説を立てることができるのではないか。すなわち、「関係」は丘のようになだらかだが、「感情」は山のように峻厳で高低差も激しいものである——と。
しかしながら、時として人と人との間の関係は険しいものに陥るし、感情の緩急自体も人それぞれで十人十色だ。私たちは無感情と呼べそうな性格の持ち主と出会うこともある。ならば何故いわゆる“フラットな関係”を「起伏のない関係」と言わず「平らな関係」と言い、“フラットな感情”を「平らな感情」ではなく「起伏のない感情」と言うのか。あるいは、そのように言われることを“自然らしく”感じるのか。これ以上の分析は基準点が曖昧だと難しいと思われるので、ここで問題を言い換えよう。何故、この私は「平らな関係」・「起伏のない感情」と言う代わりに、「起伏のない関係」・「平らな感情」と言うことを不自然に感じてしまうのか。
ミシェル・フーコーによると、個々人の知の営みは<エピステーメー>と呼ばれる一時代の知を劃する枠組みによって規定される。2020年に生きる私は、2020年の<エピステーメー>に従い科学法則に従い万象が遷移していくことを自然に感じているのだが、言うまでもなく、17世紀に生きていた人々には信仰の教えるところがすなわち知の枠組みであり、彼らにとっての自然であった。信仰から外れたものは異端とされ、社会から排除されていった歴史は、書をあらためるまでもなく明らかだ。自分が信じて期待しているところの予定調和——セカイを構成する決め打ち的な因果関係——それが、少なくとも私たちが“自然らしさ”を感じるところの定義であり、それゆえに自然さから隔たった結末は興味をそそる。山は聳え、丘は遠望に渡りたたなわる。それらは、私が期待し事実そうに違いないと信じきっていなくとも、そのようにして世界に在ることに変わりはないのだが、これを「関係」や「感情」と入れ換えたときに増す危うさは、しかし、私以外の同時代人にも自然なものとして感受されたとき、一つの時代を劃するところのエピステーメーとなり確度を上げるだろう。これらの前提に立って、私がそれぞれの組み合わせに“自然らしさ”を感じる理由として、そもそもなだらかなものである関係は「平らな」ままであるように期待され、また、起伏のある感情は、否定的に「起伏のない」ものとして期待されているからだと断定する。

3. フラット感とは
以上の考察から、ビジネスや日常のシーンにおいて耳にする<フラット感>とは、対自的には感情を否定=抑圧する努力を指し、対他的には関係を肯定=維持する努力を指す、ヤーヌス的二面性を孕んだ言葉であると結論する。つまり、自分に向けて使われる<フラット感>は、フラットな感情への期待、すなわち起伏のある自己の状態を否定し能動的に“フラットにさせる”意思のことを指し、一方で他者との間で使われる<フラット感>は、フラットな関係性への期待——二者関係を能動的/受動的に“フラットのまま”維持し続ける態度のことを指す。自分に対し「フラット感を大切にしたい」と言う場合、“フラットにさせる”意思のことを指し、他者に対し同様の発言をする場合は、関係を“フラットのまま”維持し続ける態度のことを指す。なんとなく<フラット感>を口にする場合は、おそらく両方の意味が陰陽太極図のように混淆し、どちらの意味もあわせもつ場合がほとんどなのだろう。